人文虫学
人文虫学④(私的分類学) ―人と虫との関わり学―
文明の限界と確かな社会
コダマ虫太郎
科学技術の限界
もしも、科学技術が、我々の生命維持にとって最も重要な食料である、穀物や動物性蛋白質などの食材を、ゼロから合成することに成功したなら、現代科学と経済を神とするこの現実の経済社会という一神教の原理主義に帰依しても悔いはないのかも知れません。しかし、現代の科学技術は人類の生命源である「食糧」について、せいぜい自然物に手を加える力しか持ち合わせません。未来においても、虫はおろか草の種子すら自ら蛋白質を合成して一から創り出すことは、まず出来ないことでしょう。
現代文明も自然の一部
この科学技術の限界に関する事実は、「私達の存続は、地球上の動・植物を含む生物系の食糧や鉱物系の資源を利用することだけによって許されていること」を暗示します。言い換えれば、宇宙や地球を含む自然系の恩恵によって生命を与えられていることと同義です。現代の科学技術や経済といえども、この前提の下でのみ成立することが可能であって、これを逸脱するに足りる力量は持ち合わせていない、ということです。社会や文明がこうした制約的前提の範囲内でだけ存続(持続)可能であることを、普遍的な人類の所在地として認識することが、すなわち健全な精神というものでしょう。
こうした現代科学のスタンスと限界の認識こそ、自然界を含めた現代社会における科学と文明のあるべき方向性を導くための正当な入口と思われます。「人間の英知が及ばない自然がそこに横たわっていること」、そして「自然を利用する範囲の中でだけ成立出来るのが文明社会の前提条件であること」、という認識があれば、科学(技術)と文明(物質)と文化(心)の均衡の上に成り立つ社会の実現も夢ではないでしょう。
こうした人類の位置と限界の認識は、太古からの人間の心情、つまり、森羅万象に対して、畏敬と親しみという相反する思いを抱きつつ総てを受け容れ享受した心情と、構造と理を異にするものではないようです。
確かな社会とは
一九九七年、バブルが崩壊し、アジアの工業先進国であったタイがIMF(際通貨基金)の管理下におかれたとき、プミポン国王が国民に呼びかけた言葉があります。その主旨です。「工業先進国をやめよう。国が栄えて社会が滅んでは意味がない。国よりも社会を重視しよう。(具体策は省略)。基本的な自給を確保して、売るための農業から暮らしをつくる農業に変えていこう。そうすれば幸せに生きられるはずだ。」これは、社会の全てが資本主義経済の原理で作動するのではなく、社会の核の部分に自給的な原理で働く空間をつくることで、安定と持続可能な社会を実現する、という考え方で、「NOT FOR SALE」(売るためだけではなく)という、資本主義経済の欠陥から社会を救おうとする北欧での発想にも通じます。通俗的な現実を相手にし、目先の利害を求める大衆(票)に媚びざるを得ない政治家ではなく、社会の安寧を導くべき立場の国王にして発することができた言葉でしょう。前政権の遺物に混乱するタイですが、国王の真意を汲んで欲しいものです。
確かな社会の条件は、働く手ごたえと充実感と、そして人々のつながりと支え合いが感じられる社会であるはずです。幻想的な閉鎖系の経済社会の鎖から身をよじって逃れ出した時、はじめて周りの景色もそして虫や生き物達の存在も、昔のようにもっと身近に感じることが出来るのかも知れません。
次号は最終回、生きるために大切なもの、を見つめてみましょう。
つづく