人文虫学

人文虫学③(私的分類学) ―人と虫との関わり学―

経済の鎖と現代社会の幻想
コダマ虫太郎

前号は、「食べて遊んで愛しむ虫」、を取り上げました。科学の方向性と文明社会の幻想について考えます。

虫(自然界)に学ぶ科学
機械と動力の大変革と進歩、いわゆる産業革命(十八世紀後半~)は、工業生産によって都市化をもたらし、農業においても「機械による資本主義的な生産」をもたらしました。こうした生産物の創出という大脳の働きが優先する文明社会では、生産される商品が興味(欲望)の対象として求心的な地位を占め、その他の事物は興味の対象外になり易く、虫の存在とか自然への関心や畏敬の退廃もその例といえましょう。
しかし、人間の経験や知見だけに拠る創造(想像)には限界があることも確かです。単細胞の創作(加工ではなく)にも程遠い現在の科学技術は、往々にして生物や自然界から学ばざるを得ません。例えば、「ハチの巣」のハニカム構造が生む高強度、「蚕(かいこ)の絹糸」を目指した合成繊維開発の歴史、、「玉虫の羽のらせん組織構造」による染料を使わない着色法(構造色)など、生態を模倣することによって、環境に自ら応答し、機能を発揮するインテリジェント(知能)素材の開発もすでに始まっています。

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構造色(大青蜂)

経済社会の鎖
仏教の世界を除いた俗世では、やっと最近になって、人間は生物の多様性によって生かされていることに気付きはじめました。
一方、今日の文明社会と呼ばれる地域の都市では、ほとんど自然との接触なしに人間が生涯を送ることができるという、幻想的な社会が現実に存在します。経済活動に参加して、一定の対価を得ることができれば、自然から隔離されたその安全な幻想社会の一員として暮らすことが許される仕組みです。
そこにあるのは、景色ではなく構造物で、光ではなく照明で、風ではなくダクトからの吹き出しで、市場ではなくスーパーで、食材ではなく加工品(飼)です。自然に立ち向かう必要もなく、食糧を育て収穫し加工する必要もなく、狩もせず、虫を追う必要もない。面倒といえば、買わないと物が手に入らないことと、経済活動に参加しなければならないことくらいです。一方必要がなくなった、自然相手の冒険、食糧生産や狩りなどの労働、食材加工や調理の工夫などは、今や金と時間がかかる高嶺の趣味となり、庶民はせいぜい、車かアウトドア、ゴルフかテレビかパソコンか、酒や食事でストレスを癒します。しかし、それは経済の柵の中だけの、多様性とは程遠い閉鎖系の社会に違いありません。グローバル化とは実は、個人を経済の鎖につなぎ独立性を弱める作用を持つシステムです。虫屋の文明嫌いは、どうやらこの辺りに根源があるようです。
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科学と経済の幻想
科学技術を基盤とした現代の経済社会は、確かに人々の生活を豊かにする素質を備えています。しかし一方で、一度この経済社会に足を踏み入れてしまうと、それが全てであるかのような錯覚を人々に抱かせ支配する作用も備えています。そうした錯覚に陥ってしまうと、「経済社会の虜(とりこ)」になったのも同じで、歴史と経験によって培われた人間本来の感性は封印され、通貨行使権の獲得という経済ゲームを約束事とする出口の見えない幻想の世界をさまようことになります。いつの時代も社会に幻想がなかった訳ではありませんが、自然環境を含めて人間の生活にとって身近な事柄が最もなおざりにされたのが、現代の社会における幻想の特徴といえるようです。

次号は、「確かな社会」です。
つづく